【RYU's History 】
幼児期にメヒコで育つ。ガス中毒で九死に一生を得る
ここでラテンの血を少々ゲットォー!
22歳、クラブメッドのGO(スタッフ)デヴュー
サホロ(北海道)でおどりに目覚め、
バリではおどりまくり、
パラダイスアイランド(バハマ)ではなぜか唯一のアジア人の僕がMJ役に・・
バハマでは、念願だったATP認定インストラクターライセンス(日本人で二人目)をいただきました。テニスGOとしては最高の勲章です。
時は2001年9月11日、同時多発テロが勃発した際はバハマに居ました。いろんなことがあったなあ・・と振り返ってみると思います。
⇒バハマ通信
http://blog.goo.ne.jp/ryusukeomura/c/e0abcc2ca53c048d7e8f33459ee3dac1
ところでバハマではうれしい出会いも。ジョン・フィリップさんは元ATP30位(奥さんもWTA90位)のフランス人。フロリダを中心にキッズテニスプログラム"le petit tennis"を立ち上げていて、日本で展開してみないか、というお誘い。結局、うまくいきませんでしたが、今の事業の原点かも。
しばらく日本語が口をついて出ない状態になるも、帰国。沖縄のカビラを最後にGOは卒業。いよいよ、現実社会!?へ
その後、日本語が不自由なことをいいことに、埼玉で日系のアメリカ人と偽って英語でテニスコーチをやったりもしました
いつかは日本から世界に羽ばたくプレーヤーを育てたい!と思っていたので、子どもについて勉強しようと思い、当時はまだ日本に入ってきたばかりのチャイルドマインダーの資格を取得。今では、嵐が番組の企画で取ったりと、だいぶ知られてきましたね。
この頃、将来について考えることがあって、なぜか?韓国のお酒メーカーの営業で正社員に。物流や企画、いろんなことを学ばせてもらいました。その後再度テニスの道へ
東京のテニススクールでコーチをしながら考えたのは、教師になり、顧問としてテニスを指導すること。しかし大学では教職を取得していなかったため、日大通信に編入、中高英語教師を目指すことになりました
夕方はスクールでコーチして、深夜から某大手電信会社で英語を活用しながらテレアポ、朝帰り昼過ぎまで就寝、夕方まで通信のレポートを仕上げる、という毎日。調布に一人暮らししながら学費を払い、毎月15万貯金していた自分がすごいです
教員免許取得まであと一歩!となったとき、地元の浜松でテニススクールのマネージャの募集を発見。純粋にテニススクールの経営をすることに決めました。
⇒Ryu Tennis Academy
http://ryutennis.com
そして法人化。テニスという枠に留まらず、スポーツをがんばる全ての方々をサポートする・・・そんな企業をつくっていきたいと思っています
⇒Sports For All, Inc
http://www.s4a.co.jp
こんな二転三転する人生を選んでいるのはきっと理由がある。そう信じて、その理由を少しずつ見つけながら、楽しく歩いていこうと思います。
mixiプロフィールを更新したので、そちらを転載しました・・